悠々自適な日々

古き良き、縛られない暮らし方。

宗教とか信仰とか、生きる目的。

スピリチャルは苦手、人は努力して幸せをつかみ取ってなんぼという人はエンタメだと思ってお読み下さい。

 

 

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ヨガや氣功、いろんな宗教の坐禅や瞑想、祈りの行為などを知る度に思うことがあります。

それぞれの考え方や解釈や方法があれど、やっていることは同じということ。

宗教が悪という考え方もありますが、金儲けや煽動する宗教や人間に問題があるだけです。

それに、宗教がなかったとしても宇宙意識というようなものは存在します。

お墓が先祖との窓口になるように、宗教が宇宙意識との窓口のひとつになるのかもしれません。

 

お墓はただの窓口で先祖がそこにいるわけではありません。

そして、宗教=信仰ではありません。

無数の素粒子が集まり、それぞれが別の働きをして身体が存在し、

魂や意識が存在していることが頭で理解できるでしょうか。

私にはできません。

自分やこの世界が存在し、それらを信じて大切にすることが信仰なのです。

 

社会が洗脳したから

現実的でない、科学で証明できないから信じないという人もいるでしょう。

でも、人間の思想や科学の中に”現象”があるではなく、

宇宙の誕生や今の地球のバランスなどの”現象”の中に人間がいて、

それらを理解しようと憶測をたてているのが思想や科学です。

あとで、新たな解釈が出てくればすぐに見解を変えたり、認めずに隠したり。

昔はどうしてもわからない現象を妖怪として解釈しました。

栄養学もそうです。

最近になって「ファイトケミカル」が発見されました。

そもそも、火も使えなかった人類に栄養学なんて関係ない。

自然界の動物たちにもそんなものは関係ありません。

栄養の問題ではなく、潜在意識と毒物の問題です。

一切わかっていない世界のことを否定することができるでしょうか?

それは、差別と同じです。

太古より続く天皇というシステムは神の力を用いています。

”現人神”ですね。

そんな皇族すらも否定できますでしょうか?

 

非現実を現実に

占いは統計学、風水は環境学、チャクラといわれる場所には器官が存在します。

古代エジプト文字でよく見る「ホルスの目」は脳の断面図に同じ形を見ることができます。

その中心に松果体という器官があり、第三の眼と呼ばれています。

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科学を用いて説明できることも多いですし、科学のない時代でも解釈されていたことがたくさんあります。

学校で行われる教育と宗教や洗脳の差異はなんでしょうか。

 

正解はないけれど

現段階では、瞑想などの目的は右脳を開くことだと解釈しています。

超右脳革命―人生が思いどおりになる成功法則

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この本を読んでいる途中です。

右脳の特定の器官を活性化させることで非科学的な世界にいけるのです。

松果体もそのひとつで、歯磨き粉や調理器具に多いフッ素でその機能を失ってしまいます。

民衆に超能力が宿ってはお金儲けができないので困るのです。

家畜はコントロールしやすい状態にして、生かさず殺さず。

自分たちに都合のいい情報だけ与え、少しばかりの甘い蜜を吸わせ、

ずっと先の本当にもらえるかわからない権利のために義務を背負わせる。

 

この社会のシステムを作り上げた人たちは本当にすごい。

芸能人や政治家の不祥事などを組み立てて民衆のガス抜きをしたり。

システムから中途半端に抜けようとするより、搾取されているほうが楽で幸せなのかもしれない。

 

なので、私は全部使いません。

添加物や化学製品は可能な限り使用しません。

幸せの基準や価値観は自分でつくります。

誰にとっても親やご先祖からの形見があります。

それは、身体です。

フラストレーションが貯まるばかりで、身体と健康という資産と財産を切り崩す。

こんな親不孝なことがありますでしょうか。

 

幸せのために

なにも食べなければそれが一番ですが。

最近、少し食べ気味でしんどい。

久々に玄米を炊いて、御御御付けと一緒に食す。

これで十分。

他にはなにもいらない。

一汁一食、白湯。

あとは、太陽と自分の身体。

身体がつくり出す成分。

 

まだ、仕事と食事に溺れていたころ。

いろいろな事情が重なり、お婆ちゃんの死に目どころか葬式があったことをあとから知った。

感情のやり場もなければ後悔のしようもなかった。

スピリチュアルプレゼント―ぜったい幸せになる“生き方”の秘密

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でも、死が必ずしも不幸で嘆くものではないことを知りました。

そして、亡くなったおばあちゃんやご先祖、すべての人や生き物、自然や宇宙、素粒子のために。

 

私は自らの人生を生きることを決意したのです。

それが、非常識だとしても。

人でないと言われても、気持ち悪がられても。

別に、争わなくたって生きられるのだからそれでいい。

物事を否定したがる人も、認めない人も、柔軟な人も、人それぞれ。

私は私。

でも、辛くて悲しくて死ぬぐらいなら話してほしい。

きっと、新しい生き方を見つけられるからと思うのです。